ボクがこの映画を観たのは中学3年の終わり際。友人数人と映画館へ行った。
当時の宣伝文句だと、確かガンダムはこれで最後と言っていたように思う。

'85年放送のZガンダムでアムロは宇宙に上がることができず、シャアは行方不明。
続編ガンダムZZでは全く触れられなかったこの二人の問題に、映画で決着を付けるという。

Z後半〜ZZで正直、ガンダムはもうおもしろくはないという気分にはなっていたのだが、
最後だというのなら観にいく価値はある。
TVCMもずいぶん打っていたように思うし、富野監督と富田靖子の宣伝番組もやっていた。
主題歌に起用されたTMネットワークも、中高生に大きな訴求力を持つグループであった。
要するに「お祭り」だったわけだ。

実際はその後もガンダム作品は、次から次へ制作されていくわけだが。


「・・・結局、新しく出てきたヤツを全員殺しただけじゃん。」

観賞後、ファーストフード店で交わしたボクらの会話がこれだ。
たぶん、正しい。今でもそう思う。

あまり詳しくはないのだが、このころ富野監督はあまりよい精神状態ではなかったと、
ずっと後になって何かで読んだ。


『どいつもこいつもジャマだ。みんな死なせてしまえ!』

この映画がこういう投げ遺りな衝動に満ちているのは敏感に感じ取れた。
「終わるときはこんなもんか」
初見はつまり、しらけてしまった。

この映画ってバラバラである。
文章書きと絵描きの話し合いが全然足りていないんじゃないかと思う。
シャアの乗るサザビーなんて、ありゃ頭にコクピットがあるデザインじゃあない。
聞いてなかったのか、あとから決めたのか?

各自が自分の持ち場だけこなして、
「オレは終わったよ。あとはよろしく。」
売れっ子ばかり集めてのコラボレーションってこうである。昨今の方がよくありそうだ。

胸グラつかんで、ツバ飛ばしながらアツく語って、やり直しをさせる。
物凄くストレスがたまるんだろうが、こういう人間がいないとまとまらない。


酷評ばかりだが、その通り。
ボクはこの映画、褒めてやる気はない。
ただ一つだけ、おそらくはショウバイに縛り付けられ、逃げることもできなくなった中で
開き直りのように放られる直球を受け止めるだけである。
一球だけの直球を。

”運命を変えられると思うかい?”
”いいや。” 僕はそうは思わない。
奴は僕から人生を、家族を、友を、そしてかけがえのない人を奪っていった。
けれども奴は僕に人生を、家族を、友を、そして愛する人を与えてくれた。
僕は急がない。そして決してあきらめない!
”信じること”
僕にはそれしかできない・・・

ベースプレートに記したこの文句がボクの感じ取ったメッセージだ。
何度でも人は過ちを繰り返す。それでも人を信じたい。

体裁的にはアムロの思いであるべきだが、シャアの思いも同じであろう。
世界を変えられるなんて思っているわけがないのだ。
汚れ役に身を置き、アムロに人の未来を決めさせようとした自分のズルさへの憤り。
自分で始めたことでも、一度動きだしてしまえば自分ひとりではもう止められない。
覚悟を決めるしかない。

もう一度人を信じたかったのはむしろシャアの方であろうと思う。


この映画と原作小説『逆襲のシャア/ベルトーチカチルドレン』とでは
アムロの恋人が異なっている。
映画ではMSエンジニアのチェーン・アギ。小説ではZガンダムでも登場するベルトーチカ・
イルマである。

だれがパートナーであるかは問題ではない。ララァ亡きあと、全てを満たしてくれる存在は
アムロにもシャアにも現れないはずだ。
言ってしまえば、どこにでもいるフツウの女で必要充分である。
ララァ以後、愛し、愛される人が出来たか否かが二人の道を分ける、という点が重要だ。

この点に置いて、映画のチェーン・アギの死というのを非常に不満に思う。
はっきりはしないが、お腹に子を宿していると思わせる描写もあるのにだ。
小説のベルトーチカは、こちらは描写もはっきり、お腹の子とともにアムロの最期を見届けることになる。

生涯最大の別離を経験した者が、苦難の末にまた人を愛することができるようになった。
このことをもっと大事にして欲しかった。
本には書けて、映画では描けないということの理由が、単に商業上の理由であるとすれば、
これはすこぶる残念である。

よって、ボクの中でのこの物語は基本的に小説『ベルトーチカチルドレン』の話であり、
模型制作中に常に心にあったのもこちらの方だ。


男が命を懸けるその理由。それは最終的には個人的な愛情である方が、よほど安心できる。

('04.1/11)